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日本のバスケ業界を
世界のトップクラスへ。

近年、日本バスケ業界は世界のトップリーグ関係者も注目するほど急発展している。

日本、アメリカ、スペインのリーグで

実際にゼロからキャリアを積んできた元プロ選手が

日本のバスケ業界の発展に挑む。

木下勲

Isao Kinoshita

1994年4月7日生まれ。兵庫県出身。

高校卒業後、日本初現役大学生兼プロバスケ選手になる。

その後、世界初日本人選手が

前人未踏のスペインでプロ契約を成し遂げ

パイオニアとしてその道を切り開いてきた。

今までの選手として実績を積んだ背景には

数多くの悩みや葛藤があった。

どん底とも思えるような状況でも

周囲の助けがあったからこそ乗り越えられた。

今抱える事業を始めるに至った想いを

彼の半生と共にお届けする。

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学生兼プロ選手へ、
しかしそこで人生初めて
大きな挫折を経験

関西学院高等部出身。

1年次よりインターハイ出場。

2年次にはウィンターカップにも出場。

小中高全てにおいて主将を務めました。

関西学院大学に進学と同時に

和歌山トライアンズと契約させていただき

日本男子バスケトップリーグ初の現役大学生選手としてプロのキャリアを始めさせていただきました。

しかし、プロでは試合に全く出場できず

チーム内で出場枠を巡って良くない争いもあり

その影響を当事者として大きく受けてきました。

そして1年後、無謀にも

世界最高峰NBAに挑戦するため単身渡米しました。

新しい環境に不安もありましたが

期待に胸を膨らませて日本から旅立ちます。

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初の海外挑戦、
アメリカへ

初めにNBA傘下にあるDリーグ(現Gリーグ)の

全チームのトライアウトを受けたのですが、

最初のトライアウトで洗礼を受けます。

英語もままならず飛び込み、

黒人選手10名・白人選手1名・アジア人選手が私1名の

計12名がトライアウト受験者でした。

トライアウトが始まり、5分も経たないくらいで

私と白人選手の2人は外されその10人のみで試合が始まりました。

コーチになぜ試合に参加できないのか問うと、

“よく日本から来てくれました。ありがとう。”

それだけ言われ、最初のトライアウトは終わりました。

人生で初めての人種差別を受け、

ただただ悔しい思いでした。

その後のトライアウトは、とにかく死に物狂いで、

雪辱を果たすがの如くプレーしました。

当時は空港やバス停、公園で野宿する事も

しばしばありました。

どこからも声がかからない中、

私のトライアウトへの姿勢を見てくれていた

同じ受験生のアメリカ人選手から、後にプレーする事になる

米独立リーグ(ABA)所属の

あるチームを紹介していただきました。

こうして、アメリカでのキャリアがスタートしました。

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アメリカから
新天地“スペイン”へ

後に、最初にトライアウトを受けたチームと対戦する機会があり、

試合には負けたものの、相手チームの監督に

実力をきちんと評価されたりと、無事1シーズン戦いきりました。

しかし、実は1on1にこだわるアメリカンスタイルバスケに

この時期、違和感を感じていました。

和歌山のプロ時代の監督が元日本代表監督でクロアチア出身。

監督が求めるバスケが少年ながら

すごくフィットしていたことを思い出しました。


日本人がまだプレーしたことがなく、

且つヨーロッパバスケであることを求め、

アメリカで挑戦し続けることより、

世界2位・ヨーロッパ1位のスペインへ渡る決意をしました。

帰国後在籍中の大学の学業も行い。

その後スペインへ発ちました。

スペインへ行く際、人脈がなかったため

誰かに勧められたわけでもなく、

下調べしたアカデミーを頼りにすることにしました。

最初の1か月はアカデミーに通いながらチームを探しました。

スペイン語は当然分からず、英語もほぼ通じない。

コミュニケーションにはかなり苦労しました。

それでも自分を買ってるくれるチームと出会うことができ、

地域の5部リーグでスペインでのキャリアがスタートしました。

ステップを実行する

自信をつけ、さらに高みへ

スペインで1シーズンプレーし、

確かな手ごたえと確固たる自信をつけました。

“この国でやっていける”と。

2シーズン目は更に高みを目指し、2部から4部までの全チームに

メールと電話をして自分を売り込みました。

ただ、5部リーグは基本評価されるリーグではなく

ほとんどのチームから門前払い。

今思えば、どこの馬の骨だか知らない、

小さいアジア人選手をバスケ強豪国の上部リーグが正当に評価してくれたり

わざわざ相手にしてくれるはずがありません。

そんな中、4部リーグのあるチームが練習試合に参加していいと

受け入れてくれ、見事そこで次の契約が決まりました。

ここで結果を残し、さらに高みへ。

しかし、順風満帆とはいかず、そこでまたトラブルが起こります。

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またの挫折、
しかし希望の光が。

スペインの2シーズン目での経験は、

後のスペインでの飛躍の糧になりました。

1シーズン目のチームはカタルーニャという

独自の言語がある地域ですが、当時のチームメイトと監督は

私に気を遣ってカタコトでも

英語でコミュニケーションをとってくれました。

しかし、次のチームは英語が通じず全部スペイン語。

練習の理解が追い付いていない状態で、監督に

“おれの練習がわからないなら自国に帰れ!”と罵倒されました。

言葉の壁。

アメリカで経験して克服したはずが、他国でまた同じことが。

必死でスペイン語を勉強して、シーズン終了までには

チームメイトと議論できるほどに上達しました。

しかし、チームはシーズン終盤13連敗、監督辞任など

成績は誰から見ても明らかに良いものではありませんでした。

大学卒業も控え、選手として続けるかどうか悩みました。

その時に“エージェント”という存在を知り、

日本とスペインのエージェントに1人ずつコンタクトをとり、

協力していただくことにしました。

自分の代わりにチームと交渉してくれ、

今までの苦労が報われる。

そんな気持ちでいました。

バスケットボール選手

完全に消えた希望の光。
そこからの逆転。

スペイン・日本でエージェントに動いてもらいましたが、

正直、時間が過ぎるだけの毎日のように感じられました。

確かにプロとして成功していたわけではありませんでしたが

ここまでオファーがないのかと。

一番驚いたのは、当時のエージェントたちが

“知り合いでチームにお金を出せる人がいるのか

 スポンサーを付けられるのか”

という話がほとんど。

私を選手としての評価は元よりしてくれていないように感じました。

これには言葉を失いました。

実力を見られていないのでは?と当時のエージェントへの信用はなくなり、

エージェント業に対しても疑心暗鬼になってしまいました。

就職するか、続けるか。崖っぷちでした。

“あと1年だけ本気でプレーして終わろう。”

腹をくくり、再びスペインへ発ちました。

そこでエージェント業もしているコーチと出会い

また運命の歯車が回ります。

スペイン3シーズン目はバレンシア州にある

5部リーグのチームでプレーしました。

実はその時、キッチン横を寝床に1シーズン過ごしました。

提供されたアパートに余った部屋が無かったためです。

ただ、成績は絶好調で4部昇格、35連勝チームに勝利と

現地の新聞・メディアに載るなど注目を浴びました。

その水面下で、例のコーチが、その地元にある

2部リーグのチームが私に興味を持っていると聞き

数か月に渡る交渉が繰り広げられました。

そして、2018年夏日本で記者会見を行い、世界初日本人選手が

スペインプロクラブと契約締結した事を発表しました。

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ケア

苦しみから気づいた
自分の能力、
人をサポートする魅力。

日本を飛び出して4年、ようやく掴み取った

世界トップクラスのクラブとの正式な契約。

今まで下部リーグでプレーしていた自分は

飛び級して挑んだリーグの難しさに直面します。

ですが、その前の4年間に比べれば、大した事に感じませんでした。

 

順調にシーズンを過ごす中、思わぬ落とし穴がありました。

スペインのメディアが報じた、事実と異なる記事が

日本で大量に拡散され、選手生命の危機に陥りました。

チーム関係者の方々、仲介人になってくれたコーチ、

クラブ総出で守っていただき本当に感謝しありません。

一方で、事実を報じてくれないメディア、母国からの批判は

ただ傷つけられるばかりで寂しかったです。

その後もしっかり選手を続けました。

欧州のプロリーグは各国の代表選手が各クラブ半数近く

在籍しているなど、とても国際色が豊かです。

その中で使用される言語は英語もしくはスペイン語です。

この時点で4か国語(英・西・中・日)を身に着けた日本人の私が

スペイン語を話せないチームメイトの通訳をよくしました。

また欧州トップレベルの選手たちやコーチに

日本のリーグに行きたい、仲介人になってくれないか

という話も出るようになりました。

当時まだ選手でしたが、日本のクラブに海外の選手・コーチを紹介したり

スペインでプレーまたはコーチになりたい

日本人の方をサポートしたりしていました。

コロナ禍で、自分と向き合う時間が長く続いたとき

自分は選手ではなく人と人を繋ぎ、間に入って問題解決をしたり

人のサポートをして守ったりすることに幸せを感じ

とても合っているなと感じました。

​ここから、人を支える事業へと舵を切っていきます。

バスケットボールの試合

全ての経験が
人を支える原動力に

このような経緯から2021年12月、

FIBA(国際バスケ連盟)公認エージェント資格試験を受け、合格し

正式に、国際連盟公認バスケットボール代理人としてスタートしました。

​いままでの紆余曲折のバスケットボール人生を経て

国内外選手の、国境を越えた架け橋の提供や

プロのキャリア全般の長期にわたるトータルサポートを

“選手目線”から行うことで

日本のバスケ業界、延いては世界のバスケットボール業界の

発展に貢献していきます。

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